まつろわぬ日々(リリカルなのは・クロノ憑依)
0 プロローグ
俺が覚えているのは、テレビを見ていて急に、バチン! とひどく大きな音が耳元で轟いたことだけだった。その音はあまりに大きなもので、俺は三半規管を揺らされる不快感を感じながら、だんだんと意識が遠のいていった。
人生なにが起こるかわからない、という使い古された言葉があるが、あれは真実真理だと俺は思う。俺の耳元でわけのわからない音が鳴ったこともそうだし、意識を失うなんて嬉しくもない初体験をしたのも予想できたことではなかった。
そしてまた、これも予想できたことではない。
「おめでとうございます! 元気なお子さんですよ!」
ありえないほど狭いどこかを潜り抜けた先で、俺はそんな声を聞いた。目が開かないから外の様子はわからないが、そこにおそらく誰かがいるのだろう。
それよりも、俺は今絶え間なく感じている経験したこともないような恐怖に心底怯えていた。まるでこの世の天国ではないかと思えるほどに居心地のいい何処かに、俺はさっきまでいた。それは確実だ。不快なことは何一つなく、ただ温かい何かに包まれているだけの幸せな何処か。その実感を俺は覚えている。
だというのに、今の状況はなんだ。身体が寒い。俺の周りを包んでくれていた温かいものも消えてしまった。今の俺は無防備なのだと全身の感覚と本能が告げている。
怖い。これほどの恐怖を感じたことは、今までなかった。死への恐怖ではない。あの幸せにはもう戻れないことへの恐怖だ。
だから、俺はあの狭いところを通り抜けた時からずっと泣き叫んでいた。ここは怖い。戻してくれ、と。
ずっとそうやって泣いていた。今は泣くことしかできない。他のことなんて出来るはずもない。それほどの恐怖だ。俺は泣き続けた。自分の身体を何か布のようなもので包まれたのがわかったが、あの幸福にはほど遠い。俺はずっと泣き続けた。
――が、ふと次の瞬間。
俺は壊れ物を扱うかのような優しい手つきで、その身体を抱きしめられていた。目が見えないからわからないが、触感からして片腕で抱き寄せられているらしい。誰なのかはわからない。わからないが……ひどく、安心した。
だから俺は泣いた。今度は安心して泣いた。そうしたら、俺の耳元で俺の抱き寄せた人の声が聞こえた。それもまた、ひどく安心をおぼえる声だった。
「生まれてきてくれて、ありがとう……。私の愛しい子……」
その瞬間、俺はさっきいたところにも負けないほどの幸福を感じた。だから、安心して俺はさらに泣き続けるのだった。
結論から言うと、俺は俺ではなくなっていた。最初なぜか開かなかった目が開くようになって鏡を見た時、そこには俺が見当たらなかったのだ。
別にモラトリアムですからとかそんなことではない。どこぞの死神漫画のネタじゃないんだから、そんなことを言っている余裕なんてまったくなかった。
ようするに、別人だったのだ。鏡の中にいる俺が、俺の知っている俺の顔とは。
「あらあら、この子ったらまた鏡の前に座り込んで。そんなに鏡が好きなのかしら」
何度も何度も鏡の前で自分の顔を確認する行為を繰り返していた俺は、どうやら鏡が好きなんだと思われているらしい。くすくすと上品に笑う声が聞こえたかと思うと、俺はひょいと抱きあげられていた。
……もうわかっているとは思うが、俺はいま赤ん坊になっている。それも、この赤ん坊は俺が知っている奴だった。それは俺の名前と、それを呼ぶこの母親を見ればすぐにわかると思う。
「ほら、クロノ~。たかいたかーい」
俺よりもそっちが楽しんでるんじゃないか、と思わず思ってしまうほどに綺麗な笑顔を見せている女性は、同じぐらい綺麗な緑色の髪をふわふわと揺らして、俺をその白い細腕で掲げ上げている。
どこからどう見てもリンディ・ハラオウンにしか見えない。しかも俺の名前はクロノときたもんだ。……つまり、そういうことだ。俺は「魔法少女リリカルなのは」の世界に来てしまったのだ。
今は仕事なので此処にはいないが、もちろん父親の名前はクライド・ハラオウンである。つまり、今の俺はクロノ・ハラオウンという未来の管理局提督というわけだ。
しかし、クロノといえば確か最初のころは魔力がほとんどなくて、Dランクだったんじゃなかったか? それであのリーゼたちに弟子入りしてトラウマ植えつけられた代わりに力をつけたとか……。
な、なんか嫌だなぁそれ。絶対きついじゃんその訓練。本編の中でもあの二人……特にリーゼロッテのほうの性格の悪さというかはなんとなく滲み出ていたし。相当クロノって遊ばれたんだろうって想像できてしまう。他人事なら笑い話だが、当事者になってみるとシャレにならんぞ。俺は平和を愛する人だ。魔法は使いたいが、あそこまでになんなくてもいいってマジで。
なんてことを徒然と考えながら、俺は母親の顔を見る。楽しそうに俺を抱き上げるその様子は、本当に幸せそうに見える。俺はどうやら原作のクロノの立場に転生してしまったらしいが、この人にとっては俺こそが自分の息子なのだろう。実際、生まれた時から俺だったのだからクロノという人物はいなかったといってもいい。そう考えると、やはりクロノ・ハラオウンは俺自身のことだといえるだろう。
過去の記憶がある以上、俺はやはり俺だ。まっさらなクロノ・ハラオウンにはなれない。でも、俺は今クロノなのだ。なら、俺は前世の記憶があるクロノ・ハラオウンとして生きるだけだ。それこそが俺の進む道だろう。
今こうして幸せそうに微笑む母を悲しませることだけはしたくない。リンディ・ハラオウンは俺の中ではもう母なのだ。あの異常な不安と恐怖に押しつぶされそうだった時、優しく抱いてくれた彼女の存在がどれだけ嬉しかったことか。今でも思い出せる。
だから、俺はこの人生を楽しもう。他でもない、俺はクロノ・ハラオウンなのだから。
「さて、それじゃあリビングに行きましょうか。そろそろクライドさんも帰ってくるでしょうし」
俺をあやすように抱きながら、リビングへと歩いて行く。歩くたびに少しだけ当たる緑色の髪がくすぐったい。しかしそのことさえも幸せな感じがしてしまうのは何故だろうか。
この幸せを守る為に俺は生きていこう。それが、こうして俺を生んでくれたことに対するお礼になるだろう。
結局前の人生は唐突に終わりを告げたので、親孝行らしいことなんてしていなかった。だからというわけではないが、せめてこの人生では俺なりに精いっぱいの愛情を返そうと思う。
俺はそう決意して、楽しそうな母親の顔を下から見上げる。
現在の年齢、0歳六か月。クロノ・ハラオウンの人生は、こうして幕を開けた。
続く(嘘)
超ありがちな設定だぁ。
自分でも不思議だけど、突然現実来訪が書きたいと思って書いたもの。
短いうえにプロローグなので、これからどうなるかすら想像不可能という罠。
……さて、きょう×なの書かなくちゃ。
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