――ガララ。
文字で表現するとしたらその表記を当てはめるのが妥当だと思われる音を、恭也の目の前に設えられている、空間と空間とを隔てる壁を越えるための設備が発した。
まあぶっちゃけドアなのだが。
しかしそれにしてもなぜこんな婉曲的かつ理解しづらい物言いをするかというと、それはひとえにそのドアを開けた恭也が非常に今混乱しており、かつ思考は真っ白という事態に陥っている異常性を少しでも理解してもらうためである。
ではどうして恭也がそんな状態になっているのか。
当然だが、恭也がドアを開けたという行為にこそ原因がある。
先述したように、ドアとは空間と空間の間に存在する壁を越える――すなわち向こうとこちらとを行き来するための設備である。この場合、問題となったのは恭也にとって向こう側となる空間であった。
わかりやすく現在の状況を俯瞰してみるとこうなる。
恭也の現在地、ドアの前の廊下。ドアを開いた先、脱衣所。
そして、脱衣所の中にいた人物、半裸の高町菜乃葉。
要するに、恭也は迂闊だった。言ってしまえばそれだけなのだが。
「……――き、」
「ぅ……ぁ……」
さしもの恭也もこういった事態には急な対応も順応も出来ないらしい。思考する間も余裕もなく、互いの顔が熟れたトマトよりもなお深い赤に染まっていく。
「きゃぁあーッ!」
「――っす、すまんッ!」
スパンッ!
今度はガララと暢気な音を立てることもなく、廊下と脱衣所を隔てるドアは閉ざされた。
恭也はよろよろともつれた足で近くの壁に寄りかかると、そのまま顔を伏せた。ちなみに顔は真っ赤である。
(……思い出すな思い出すな思い出すな思い出すな思い出すな……)
何かに取り憑かれたかのように心中で同じ言葉を唱え出す恭也。もはやそれは催眠とか自己暗示に近かった。
……ああ、でも凄く綺麗だったなぁ。風呂あがりなのか上気してた白い肌とか、柔らかそうな身体とか、ちょっと濡れたままの髪とかも凄くこう……。
そこまで思考が及んだところで、恭也は勢いよく自分の頭を壁にぶつけた。トチ狂ったわけではない。というかむしろトチ狂った自分を矯正するための行動だった。
(……いかん、俺はどうかしている……)
ホントだよ、とこの場に誰かいたらそう言ったかもしれない。あるいは男であったなら共感して恭也の肩を叩いて友情を育んだかもしれないが。とはいえ、この場にいるのは恭也だけだったからそんなことはありえない。
そう、恭也だけだった。さっきまでは。
ぽん。
不意に恭也の肩に手が置かれた。
はっとして恭也は背後を振り返る。そこには、とても清々しい笑顔を浮かべた桃子が立っていた。
「グッジョブ、恭也」
「他に言うことはないのか……」
むしろその言葉にへこんだ恭也であった。
そんな朝の一幕を経て、菜乃葉とは微妙な空気のまま恭也は学校に登校した。とはいえ、やはり恭也にとって朝の件は衝撃的な出来事であったために、その日一日の授業にはまるで身が入らなかったりした。
なんといっても恭也は現代稀に見る純情少年なのだ。エロ本を買ったことなんて一度もない(勝手に友人から勧められることはあるが)。女性の裸を見たことなど、幼いころの美由希と小さい頃は一緒に入ったこともある桃子ぐらい。
ああ、あと小さい頃のなのはとも一緒に入ったっけ。
「………………ッ!」
と、そこで再び今朝の光景を連想してしまった。そういえばなのはって菜乃葉なんだよなぁ。おんなじようなもんだよなぁ、というふうに。
今日の恭也はもう、なんていうかダメダメだった。
ひとり机に突っ伏して己の中に巣くう煩悩と闘って悶々とし続けている恭也に、見かねたのか彼の親友である赤星が声をかける。
「……なあ高町。お前、なんていうかその……不気味だぞ」
どうにかオブラートに包もうとして失敗した赤星の言葉に、恭也は机にくっつけていた顔を上げて件の彼の顔を見やる。
「……そんなにか」
「ああ。そんなにだ」
その言葉に頷く大多数の男子。そして、赤くなる高町君なんて珍しいわぁ、なんてなぜか喜んでいる女子。
どちらにせよ他人の目に今の自分はよほどおかしく見えているらしいと悟った恭也は、とりあえず突っ伏していた身体を引き上げ、椅子の背もたれにもたれかかった。
そして溜め息をつく。それにまた怪訝な顔をする赤星である。
「どうした高町。お前がそんな風になるなんて、何か悩み事でもあるのか?」
「いや……」
あるといえばあるが、言った瞬間に自分の中の何か大切なものをなくしてしまいそうで、恭也は口を噤むしかなかった。というか、どんな状況だろうと堂々と口にするようなことではない。
とはいえ、こういった恭也を見るのは本当に珍しいことであり、人間的な一面を強く出す恭也を見るようになったのはここ最近のこと。
たぶん高町さんのことなんだろうなぁ、と思う赤星。そして現実は寸分の違いなくその通りであった。
「……まあ、なんにせよここでこうしていてもしょうがないだろ。とりあえず家に帰ったらどうだ? もう放課後なんだし」
その言葉にぴくりと反応を示した恭也は、気が進まないのか気だるげに立ち上がると、
「ああ……」
と呟いたまま教室を出ていった。
それを見て赤星はこれは重症だな、と心の中で溜め息をついた。
「まあ、ああいう歳相応なところがあったほうが良いよな」
苦笑しつつも親友の最近の変化を嬉しく思う赤星はそう恭也の現状を評しながら、恭也が出ていった扉を見つめるのだった。
赤星と別れて教室を出た恭也はどことなく普段よりも重く感じる足を動かしながら、昇降口まで近づいていた。下駄箱まで進み、自分の下駄箱から外履きの靴を取り出し、代わりに上履きをその中に放り込んだ。慣れた仕草で靴をはくと、昇降口から外に出る。
構造的に運動場を突っ切って校門に向かうことになる風芽丘学園高等部の運動場には、部活に精を出して汗を流す多くの生徒が見受けられる。中には友人たちと何やら笑みを浮かべて話し合う姿もちらほらと確認できる。
それらは実に日常的で平凡な光景であったが、どうにも見慣れない一角が恭也の目に映った。それは校門付近。男子学生と少数の女子が校門のほうを窺うように遠巻きに目を向けている姿が見られたのだった。
(……なんだ?)
さほど気にするようなことではないのかもしれないが、いつもと違う点があれば気になってしまうのが人間というもの。恭也もその例に漏れず、その向ける視線の先へと自分の目を向けてみた。
――瞬間、恭也は一目散に駆け出した。
周囲の人間が突然走りだした恭也を驚いたように見る視線を感じながらも、恭也は足を止めることなく校門脇に立つ人物のもとへと向かっていった。
「……菜乃葉っ!」
声をかけると、校門にもたれるように立っていた彼女はゆっくりと恭也のほうに向きなおった。
「恭也くん」
ほっとしたように恭也の名前を口にする菜乃葉の横に辿り着くと、恭也は並ぶように横に立つ。
風芽丘学園自体は菜乃葉の世界にもあるものの、ここはまったく違う世界だし、菜乃葉が通っていたのは私立聖祥学園だ。しかも中学までしか行っていない。高等部は菜乃葉には未知の世界だ。
だというのに、そこで無遠慮な視線にさらされたとなれば居心地が悪い思いをするのも至極当然。菜乃葉は恭也が来るまでの間、そういった居心地の悪さや不安と戦いながら恭也のことを待っていたのだった。
ゆえに、恭也の姿を見た時の菜乃葉は心底ほっとしていた。笑顔がこぼれるほどに。
それを見た周囲は、学校の有名人の一人といえなくもない高町恭也に恋人出現かとにわかに騒ぎ出す。月村さんはどうするのか、とか、他にも仲のいい子っていなかったっけ、といった会話がそこかしこから聞こえてくる。
それに居心地の悪い思いをするのは、今度は二人ともだ。色々な意味を持った視線を全身に感じた二人は、この場を移動することを選択した。
「……とりあえず、ここを離れよう」
「う、うん。そうだね」
というわけで、三十六計逃げるにしかずとばかりに二人は校門傍から家のほうへと足を進めた。
そんな二人を見送った生徒たちの間で高町恭也に彼女現るの噂が流れ、それが気がつけば全校に広まることになるとはこの時の恭也は気がついていなかった。
今はただ恭也はあの場から離れられたことを喜ぶだけである。
そうしていくぶん早歩きで学校を後にした二人は、段々といつも通りのゆっくりとした足取りに戻っていく。静かに歩く菜乃葉の横に恭也は並び、これまた口を開くことなく静かに歩き続ける。
「………………」
「………………」
沈黙。
互いに朝の出来事が尾を引いているのは明らかであった。
「……そ、そういえば、どうして急に学校に来たんだ?」
沈黙に耐えかねて、恭也が口火を切った。実際そのことはさっきからずっと抱えていた疑問であったので、都合が良かったとも言える。
その恭也の言葉に、菜乃葉は若干口ごもった。
「あ、あのね。桃子さんが、そんなに気になるんなら恭也に会って話せばいいじゃない、って言って……その、放りだされました」
その時の桃子の顔はいつもの三割増ぐらいの笑顔だった。何となく逆らうこともできず、菜乃葉は放課後の時間を狙って恭也の通う学校へと赴いたというわけである。
「……やはり、母さんか……」
「あはは、わたしのお母さんはあんなにパワフルじゃなかったよ……」
何か悟ったような物言いをする恭也に、菜乃葉は苦笑する。
「……まあ、あの人はもうあれが基本だからな。頑張って慣れてくれ」
「ど、努力はします」
何か実感のこもった恭也の言葉に、神妙な顔で頷く菜乃葉。この一週間ほどの生活で、菜乃葉もこちらの桃子の性格は大体把握していた。だからこそ、恭也の忠言には素直に耳を傾けることが出来た。
「それで、どうだ。こちらの生活には慣れたか?」
「あ、うん。翠屋のほうも楽しいし、みんなよくしてくれてるしね」
「そうか……」
恭也と菜乃葉はそれからも自然に会話を交わしながら高町家への道を歩いて行く。気がつけば二人はごく自然に言葉を交わしていた。
というのも、やはり朝の出来事はそれなりに衝撃的なことではあったが、互いにそれを理由にお互いを避ける理由にはなり得ないからであった。恭也としては申し訳ない気持ちがあるし、菜乃葉にも恥ずかしく思う気持ちはある。しかし、だからといってお互い話さなくなるというのはやはり嬉しくもなければ楽しくもない。
であるなら、適当なきっかけさえあればあとは自然といつも通りにすればいい。ただそれだけのことであるなら簡単にできることなのだ。なにしろお互いにそうして話すことは望んだことでもあるのだから。
まあ、朝のことは忘れたふりをして開き直ったとも言えるわけだが。それでも、気まずくなってしまうよりはずっといい。そう思うのだった。
そんな内心の色々は置いておいて、恭也と菜乃葉は笑い合いながら家路を歩く。ここ最近の話、特に菜乃葉は恭也の学校生活に興味を持った。恭也が過ごす一日の話を聞きながら、菜乃葉は時に笑い時に質問をして恭也の話を促す。恭也もまた、応えるように言葉を重ねる。話下手という自覚がある恭也だが、それでも菜乃葉と話しているのは楽しかった。だから、恭也もまた時に笑みを浮かべながら菜乃葉とのおしゃべりに興じていた。
そうして過ごしていれば、時間の経過などはまさに瞬間のように短く感じられるものである。恭也と菜乃葉の二人も、気がつけば高町家へと辿りついていた。
「――あ、着いちゃったね」
「ああ……」
それだけをこぼした二人のそれぞれの心の内はいかなるものか。わずかに寂しさをのぞかせた口調であった菜乃葉だが、すぐにまた笑顔になって恭也を促した。
「ほら、早く中に入ろう恭也くん」
しかし恭也はそれには答えず、視線を菜乃葉にあわせず落ち着かなさげに周囲の中空を眺め出した。
「恭也くん?」
もう一度呼びかけると、恭也はうろつかせていた視線を納めて、じっと菜乃葉の顔を見つめてきた。思わず菜乃葉の心臓の鼓動も早まる。
「菜乃葉……」
「な、なに?」
次の瞬間、菜乃葉の視界から恭也の顔が消えた。というのも、恭也が突然頭を下げてきたからだ。お辞儀の格好である。
「朝のこと、すまなかった。あの時は混乱していて謝っていなかったからな……」
頭を下げたままそう言う恭也に、菜乃葉はああそのことか、と若干気が抜けた。むしろ菜乃葉が思い浮かべていたのはもっと違う展開だったからだ。なんというかこう、胸が高鳴るようなそういう出来事を予想……というか、望んでいたのだが。
もし実際にそう言ってくれていたら、自分だって……。とそこまで考えたところで菜乃葉ははっと自分を取り戻した。そして今の今まで頭の中で展開されていた思考を思い返して、顔面を一気に発火させた。今は恭也が頭を下げていてその顔を見られていないのが幸いだった。菜乃葉は心底そう思った。
とりあえず今の思考は禁止だ。禁則事項だ。うん、そうしよう。自分の中でそう決着をつけた菜乃葉は、気持ちを切り替える意味も持たせて一つ咳払いをした。まだわずかに頬が赤い。
だが、恭也にそれが分かることはない。むしろその咳払いを聞いて、次にどんな自らを詰る言葉が出てくるかと身構えているようだった。恭也は真面目な性格だ。自らに非があるのは明らかであるから、そんな言葉も素直に受け止めようと考えていた。実際にはまったく関係ないことを菜乃葉は考えていたわけだが。
「え……っと、いいよ別に。わたしだって鍵とか閉めてなかったわけだし……」
「だが……」
その言葉に恭也は顔を上げてさらに自分の非を言い募ろうとする。そんな恭也に、本当に自分のせいでもあると思っている菜乃葉は、慌てたように言葉を続けた。
「だ、だからそんなに気にしなくていいよ。見られたっていっても恭也くんだったし……」
「え?」
まったく想定もしていなかった言葉を返されて、恭也は思わず目を皿にした。
遅れて自分が何を言ったのかを理解した菜乃葉も、さっきに負けずとも劣らないほどに顔を真っ赤にした。
「あ、ぅ……そ、その……」
異常なほどに上気した頬をさらしたまま、菜乃葉は何事か弁明しようとするが、心の余裕はそれに追いつかず言葉として口から出ることはなかった。ただ声にもならない変なうめき声のようなものが漏れただけである。
そして、恭也は恭也で今の菜乃葉の言葉はなんだったのかという疑問に捕らわれて頭が上手く働いていない。
どうとでもとれる言葉である。恭也のことを信頼しているからともとれれば、男として見ていないともとれる。あるいは、そういう関係になることに抵抗がないからとも。
今の発言をどう言った意味で受け取ればいいのか、恭也は菜乃葉と同じように火照った頭で思考を巡らす。かといって恭也はこの件に対して当事者なのであり、客観的な思考が出来るはずもない。結局満足のいく解答など導き出せずに、ぐるぐると出口のない迷路を彷徨うだけだった。
それに対して、菜乃葉はようやく少しは落ち着いてきて周りを見る余裕が生まれてきていた。そしてふと見れば恭也が恐らく己の言動で考え込んでいるではないか。まずい、もし自分の気持ちに気づかれたらという心理が働く。同時に、こんなうっかりで知られることも自分は望んでいないという思いも。
ぐいっ。
菜乃葉は恭也の腕を唐突に引っ張った。
「――っ、な、菜乃葉?」
「ほ、ほら恭也くん! 早くお家に入ろう、ねっ?」
「あ、ああ……」
腕をひかれるままに恭也は高町家と外を分ける門をくぐっていく。
菜乃葉のとった手は単純だ。つまり誤魔化しただけ。まあ、もし恭也にその言葉の意味を問われた時に、答えられず、肯定するわけにもいかず、否定するなんてもっとあり得ない菜乃葉にとってはこれが精一杯なのだろう。
相変わらず真っ赤な顔をした菜乃葉は、強引に恭也の腕を取って同じく少し照れたような恭也を無理やりに家の中へと連れ込んでいくのだった。
次回更新楽しみにしてます。無理をせず頑張ってください。
恭也らしくも無いミスでしたが、その後がもう純情少年まっしぐら(笑) 焦って自爆するなのはも、純情さで負けてませんw
どちらも色々と高スペックなだけに、かえってこういった人間くささが魅力的でした。
第3集へと入り、恋愛要素も強くなりそうな気配。今後も益々楽しみになってきましたw
これからも無理をしない範疇で、執筆活動等頑張ってください。それでは~。
追記
上でたのじさんが仰ってましたが、そういえばそんな事もありましたねw 恭也って意外と弄りやすいキャラかも?
いや~少しずつ糖分が増えてきた感じもありますね……ここからどんどんと甘くなっていくのかは解らないですが楽しみですよ~。
うちの桃子さんがなんだか凄いことになってきてますw
次回の更新時もぜひ読んでやってください~
>shinoさん
電車の中でのニヤニヤは本当に注意しなければなりませんからねぇw
でもニヤニヤして頂けたならよかったです。今回のコンセプトはニヤニヤするぐらいのラブコメでしたから^^
>たのじさん
甘味増量中です(笑)
そう言えば確かに…。ある意味で典型的な男だなぁ恭也め…( ̄ー ̄)
>ziziさん
うちの二人は完全に普通の男の子と女の子ですねー。まあ、二人とも本気を出せばヤバイわけですがw
第3集での展開もどうぞお楽しみに!
頑張らせていただきます~^^
>FINさん
ラブコメは素晴らしいものなのです(力説)
やっぱりこういうの書いてて楽しかったりますねー。戦闘も書いてて楽しいですけど、また別種の楽しさですw
今後どうなっていくのか。甘みが増すのかもどうか楽しみにしていてくださいね~
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